有人飛行船の夜
 


    菅生が咥えた煙草からは、さわさわと煙が立ち上っていた。宵闇
   にゆっくりと消えてゆくその様子は、まるでモヤモヤ病のレントゲ
   ン写真のようで、そこはかとなく不気味に思えた。
    夏の夜には独特の匂いがある。そして、その匂いが過去の出来事
   を思い起こさせる。嫌な事も、良い事も、総て。それもこれも全部
   匂いを認識する神経が海馬に近いからだ。
    脳の作りを間違えたな、と菅生は人類の祖先に小さな声で悪態を
   ついた。

   「ゆーうーすーけぇー」

    佐久間の気の抜けたサイダーのような声が部屋の中から聞こえた。
   菅生はその声を無視し、夜の鎌倉市を観察する。
    いつの間にか彼らの町は光が増え、都市化が進み、肉眼ではあま
   り星も見えなくなっていた。
    ――佐久間が昔は良かった、なんて言うのも少し解る気がするな、
   と少し感傷的になる。
    そしていつも通り煙草の火をビールの空き缶に落とすのだ。

   「おぉい、祐介ってば」
    ――こいつは何も変わっちゃいないな。
    少し感傷的になった自分がまるで馬鹿のように彼には思えた。
   「なんだようるさいな。こっちゃ食後の一服を愉しんでんだ」
    菅生は部屋に入るなり佐久間に言う。
   「何回も呼んだのにさぁ」
   「だから何だよ。お前の脳みそは空っぽか」
   「えぇ。ひどいなぁ。人を勝手にヤコブ病にしないでくれる? そん
   なのまるで――」
    そこで佐久間は口をつぐんだ。
   「まるで?」
   「うぅん、何も無いよ」
    佐久間がそう言うと、壁に無造作に引っ掛けられた時計の秒針の
   音が部屋に響いた。
    あぁ、これだよ。だから夏の匂いは嫌なんだ。全部思い出させや
   がって。
    過去の記憶を、観賞的に、干渉的に。

   「ていうかさぁ、祐介臭いんだけど。煙草やめてよ」
    佐久間が手を顔の前でぱたぱたしながら言う。
   「居候のくせに文句言うな。ここは俺の部屋だ」
    菅生の言葉がまた、部屋に沈黙を呼び込んだ。


   「スプートニクだな」
    結局、沈黙は菅生が破り捨てた。恐らくは佐久間も記憶の底へ旅
   に出ていたのだろう。
   「いきなりどうしたんだい。5号のこと?」
   「あぁ。ヴェルカと、ストレルカ。世界の外側に旅立って、生きて
   帰ってきた。まるで今の俺とお前じゃないか」
    佐久間は少しにや、と頬の筋肉を緩める。
   「成る程、ヴェルカ、ストレルカ、じゃないか、っていう駄洒落だ
   ね。祐介、ギャグセンス皆無」
    佐久間も間を取り繕うのに必死になっている様子だ。
    脳の記憶媒体に圧縮処理された筈の悲しい記憶は、少しの衝撃で
   解凍される。ダブルクリックくらいの、ほんの少しの衝撃。
    佐久間もそれくらい解っている筈だし、彼の方がよほど辛いこと
   だろう。だから彼は、痛々しい程に馬鹿みたいに馬鹿を演じている。
    二人は少し俯いたまま、少しの時間を放流させる。

   「なぁ、佐久間」
    ふ、と菅生が顔を上げると、佐久間のつむじが不安定な渦を巻い
   ているのを見た。
    その声に佐久間は我に帰ったように顔を上げた。そして、はぁい?
   と、また馬鹿なフリをする。
   「そろそろその馬鹿なフリやめてくれよ。良い加減もう飽きた」
    佐久間の目が少し大きくなり、眉間に少しのしわと、奥歯を噛み
   締めたような頬。
    しかしそれは一瞬にして消え失せ、元のピエロに戻る。
   「いきなりどしたのさ。馬鹿で何が悪いんだい?」
   「お前はずっと、自分が作った理想の嘘の中で生きてる。それを見
   てるのが俺はもう疲れた」
    堪らなくなった菅生は眉間にしわを寄せながらテレビに目をやった。

     『神戸、女学生が校門に挟まれ死亡』

    また、このニュースか、と菅生はうんざりとし、余計に眉間のし
   わが増える。

   「馬鹿はいいよ? 人生を馬鹿みたいに楽しめるんだ!それに何も考
   えなくとも、こいつは馬鹿だ、で周りは納得してくれる!なんて素
   敵なんだ!」

   「一つだけ言いたい事がある」
    菅生はテレビを見ながら言う。
   「本物の馬鹿は自分が馬鹿だと認識しない。自覚がまるで無いからだ」
    古いブラウン管は少しのノイズと共に菅生に事の詳細を伝える。
   「お前は自分が馬鹿だと認識している。そこで質問だ」
    キャスターは淡々とニュースを読み上げる。
   「お前は馬鹿か?」

    佐久間がはぁ、と小さなため息をつき、僕は馬鹿だよ、と続けた。

    それが佐久間のイドからくる自己防衛なのか、スーパーエゴの中
   で生きる人間の本能なのか。菅生には分かりかねた。
    フロイト曰く、イドは自己認識し難いそうだが、本当のとこ
   ろはどうなのか。
    そんなこと、佐久間の頭の中を覗いて見ない限り不可能で、そん
   なことは物理的に不可能だ。
    シュレーディンガーの猫、嘘か、真実か。

    例えば、佐久間が嘘つきで、彼が嘘をついたとしよう。
    果たしてそれは嘘なのか、はたまた真実なのか。
    仮にそれが佐久間のイドが望むものなら、無意識的自我理想なら
   ば、菅生には何も言えまい。

    言えることなど、何も無いのだ。

   「そんなことよりさ! 天体観測でもしないかい? 今日は雲が無い
   から良く見えるよ」

    佐久間はまた馬鹿に戻り、懐かしくも古めかしい双眼鏡を引き出
   しから取り出した。

    夏は、嫌いだ。
    菅生の心はその言葉で埋め尽くされていた。




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