皆さんに悲しいお知らせがあります。
先生は神妙な面持ちで言いました。
しかし、その言葉はみんなの耳には届きません。
当たり前のように朝のホームルームは始まりました。
それを私は薄いガラス越しに見ていました。
私の席には、誰もいません。
まるで何事も無かったかのように、彼らは過ごします。
“悲しいお知らせ”というのはただの常套句でありました。
宅配のトラックは今日も走ります。
毎日通っていたコンビニは今日も営業しています。
悲しいことなど、何も無いのです。
私の通夜が先日行われました。
クラスメイト達は強制的に出席させられました。
通夜の最中の彼らは悲しい“ふり”をしていました。
しかし、道中は面倒くさそうに歩いていました。
中にはそれを口に出していた人もいました。
帰りの道中も、みな笑いながら話していました。
昨夜のドラマはどうだった、バイトの先輩がどうだ。
その様子を、私はやはり薄いガラス越しに見ていました。
私自身も、何の感慨も湧きません。
ただ、自分が無くなっただけ。
私がいなくても世界は回ります。
世界の全ては世界が作ります。
それに比べると私の世界はとても小さなものでした。
自分が無くなってから、ようやっと気付きました。
向かいのマンションの3階、一番端の女性は今日も布団を叩きます。
近所の幼稚園の鯉のぼりは今日も風に揺られます。
始業を伝えるチャイムは今日も同じ音色です。
教員は普段と同じく授業を進めます。
悲しいことなど何もありません。
非常勤講師は私の死など知りません。
「もう、おわり。そろそろいきましょう」
耳元で声が聞こえました。
私がいなくても、変わらず町は回ります。
それは、きっといいことなのでしょう。