ピーターパン・エクスプレス
 


    いつかは人は大人になっていく。子どもで居られる時間はあと僅かしか無い。
   幾らかの不安と期待を持ちながら、彼らは成長を続ける。
    いや、成長する伸びしろなどもう無いのかも知れない。

    一般的に男性は二十歳の時点で人間性を確立させると云われている。其れま
   でに培ってきた価値観や思考に囚われながら死を待つという。
    菅生は薄々感づいていた。自分はあの頃の、高校生のまま、図体だけ大人に
   なってしまったのだ、という事に。
    “人が変わる”という事は、しばしば環境によるものだと彼は考えていた。
    例えば、菅生自身が臨時教諭から正教員に昇格したとしよう。
    そこには責任が少なからず伴い、言動にも細心の注意を払うべきである。そ
   れからに変化が訪れたならば、彼自身が変わったというよりも、環境に適応し
   たといえよう。

     皆、子供のままなのだ。

    「涼しいな」
    菅生はベランダから煙草を蒸かし、呟く。ビールと煙草を嗜むようになり、
   皮下脂肪が幾年前よりふっくらとしてきていた。
   「そりゃあもうすぐ夏も終わるからね。これは……キンモクセイかな? いい
   香りだね」
    佐久間は相も変わらず柔かに言う。
    彼は大学を無事に卒業した後、大学院で何かよく分からない研究を続けてい
   た。そしてその研究が一度何かの雑誌で取り上げられた事があり、国内での知
   名度は少なからずあった。

    『脳科学界の若き彗星』
   そっちの界隈の、ちょっとした有名人だった。

    「――改名して、手術するんだ」
   佐久間は含みを持たせながら口にした。
   「へぇ。いいんじゃね。お前には俺と違って金もあるし。なんて名前にするん
   だ?」
   「シンヤ、に変えようと思ってる。一(ニノマエ)と同じ漢字でさ」
    ふぅん、と適当に相槌をうつ菅生。煙草の煙が風によって目に入り、思わず
   右目を閉じる。
   「過去に囚われんのもどーかと思うけどな」
   「やっぱり忘れられないんだよ。僕が由香里だった頃、あの人にはお世話にな
   ったしね。過去ってさ、今の自分を作ってくれてる大切なモノなんだよ。それ
   を無いがしろには出来ないよ」
    そんなもんかねぇ、と菅生は肺から煙を吐き出す。
    そして、僕があの人を壊しちゃったみたいなものだしね、と佐久間は続けた。
   正直なところ菅生は一の事はあまり好いていなかった為、何も言わないでいた。
   否定も、肯定も。

    「お前、結構非道いよな」
   「彼に対して、かな」
   「そうだ。俺があいつだったらお前を憎みに憎んでると思うわ。お前があいつ
   の事を全部理解した上でとった行動ならなおさらな」
   「――後悔しか、していないよ。死ぬ程苦しめてしまったと思うし、多分今で
   も苦しんでると思う」
   「分かってるんなら、もうどうしようもないがな。同情するよ。お前にも、あ
   いつにも」
    あくまでも中立な立場に居たかったためか、否定も肯定もせずに、菅生は佐
   久間を窘めた。

     初秋の風が前髪を撫でてゆく。煙草の火を消しても、彼はまだベランダに立
   っていた。

    「なあ、佐久間。ピーターパンって本当にいんのかな」
    菅生のその言葉に、佐久間はあんぐりと口を開いたまま数秒停止した。佐久
   間の今までの彼との付き合いの中で、彼がこんな懐疑的な事を口にした事が一
   度も無かったからであった。
   「もしピーターパンがいるんだったら、きっとみんながそうだろうね。みんな
   子どものまま大人になっちゃったんだよ」

     貨物列車が音を立てて夜の帳の中を走ってゆくのが見えた。乗客など乗って
   いる筈も無いのに、何故かそこに揺られて居る人間が居るように感じた。必要
   の無い思慮が浮かんでは消え、菅生の右脚は貧乏揺りを始めた。

     いつか、僕たちは大人になって、世界のお荷物と認識され、あの列車に揺ら
   れて遠い土地へ旅立つ。現世では無用の長物。人生五十年、化天のうちに比ぶ
   れば、夢幻の如くなり。

    「総てはひとごと、こどもごと、か」

     菅生は肺一杯に初秋の空気を吸い込み、部屋に戻る。何と無く投げやりな気
   持ちになったのは、きっと季節の変わり目だからだ。

    「昔さ、教室でいつから大人だとか言ってたよな」
   「祐介、よく憶えてるね」
   「今思い返すとあの頃の俺たちは知っているつもりになって何も知らない子ど
   もだった」
   「うん」
   「今はどうだ?」
    佐久間はうぅん、と喉を鳴らす。持っていたペンを机にことりと落とし、自
   身のつむじをくるくると人差し指で撫でる。
   「色んな事を知った筈なのに、それを信じようとしない、やっぱり子どもなの
   かな」

     菅生はじいと時計を眺めていた。最近、時間が経つのがとても早く感じられ
   るようになった。

    「二十歳までの二十年と、二十歳からの六十年って、体感的にはさほど変わら
   ないらしいね」
    佐久間はいつの間にか頬杖をついていた。口の端に先程食したミートソース
   がちょんと付着しており、何やら滑稽だった。

    「僕たちは何をしてきたのかな。大人になるまでの期間」
   「それを理解するのが残された六十年弱なんだろう。こいつはこんな事をして
   来たからこんな事が出来るのか。或いは出来ないのか、とか。それが“人”で
   あって、そこには子どもも大人も関係無いんじゃないか。まぁ俺にはもうあま
   り時間がないが」

     佐久間はふぅ、とため息をついた。

    「どっちでもいいさ。今は今!もう少し面白い話をしようよ。疲れちゃった」
    その明るい声は菅生の部屋に風を吹かせるような気がした。

    「あとさ、僕の持論……というか憶測、推論なんだけど、祐介、君はピーター
   なのかい?」


     佐久間はこめかみに右手人差し指を突き立てながら、左手で菅生を指さした。



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