公転軌道上の側面
 


    佐久間は録画していたバラエティ番組を見ていた。
    ツメを折られたVHSビデオがブラウン管の横に高く積み上げられて
   いる。全て、佐久間によるものだった。ダビング機を購入したのは
   いいが、彼の好きな番組ばかりを録画されているのは、どこか気に
   食わなかった。
    もうすぐ夏休みも終わるというのに、菅生は進路を決めかねてい
   た。彼の学力はどちらかと云えば優秀だが、如何せん自身の行く末
   が見えなかった為だ。
    蝉の鳴き声と、子供のはしゃぐ声が妙に喧しく感じられる。恐ら
   くは精神的なストレスから来るものだろう。
    それに対して佐久間には確固たる自分の未来を持っている為、本
   人曰く、もう決めてある、との事だった。
   「なぁ、佐久間。お前大学どこにするんだ?」
    菅生の質問と視線の先には、素麺をすする佐久間の姿があった。
   「んー? はっほほはいはふにへもほほもっへ」
    口一杯に素麺を詰め込んだまま、佐久間は言う。菅生の苛立ちは
    余計に増してゆく。
    その表情を汲み取ってか、佐久間はごくりと喉を鳴らし、麦茶を
   食道に流し込んだ。
   「札幌大学にでも行こうと思ってねー」
   「子供みたいな嘘つくな馬鹿か」
    菅生が言うと、佐久間はひひ、と口角を上げながら左手でブイサ
   インを作った。
    そんな彼を横目に、菅生はインスタントコーヒーを淹れるため戸
   棚を開けた。しかし、その容器はほぼ空になっており、菅生の顔に
   は影が落ちる。
   「俺、コーヒー買ってくるわ」
   「ついて行くよ」と佐久間は箸を置いて言う。いつの間にか、彼は
   素麺をたいらげていた。
    ここから少し歩けばスーパーがある。インスタントではあるが、
   無くなった場合には学校の帰りに買っていたが、夏の長期休業によ
   ってその日課は現在行われていない。
    カフェインは菅生にとって絶えず必要だった為、たとえ外がうだ
   るような暑さであっても調達に出かけなければならない。正直、面
   倒だった。
    佐久間は四つん這いでビデオデッキに近づき、取り出しボタンを
   押下する。すると、ビデオデッキからはきゅるきゅると怪音を上げ、
   すぐにテープを吐き出すはずのビデオデッキはなかなかそれを出せ
   ずにいた。
   「あちゃあ、テープ中で絡まっちゃった」
   「無理やり出して切っちまえよ」
   「この番組好きだったのになぁ」
    佐久間がVHSを無理やりに引っ張り出すと、やはりテープはくちゃ
   くちゃになりながら、デッキからびろりと出てきた。「南無三」と
   一言呟きなから、佐久間はテープをハサミで切り、ゆっくりと引き
   抜いた。

    外は陽炎が見られる程の暑さで、菅生は辟易していた。
   「ほら! いくよ!」
    菅生のそんな気持ちとは裏腹に佐久間は普段は出不精なのにこの
   時は意気揚々としている。恐らく菅生の面倒だという表情を悟った
   上での行動だろう。
   「きびきび動くっ!」
    馬鹿で、おっちょこちょいで、気が利く。佐久間はそんな人間だ
   った。


   ○


   「暑っちいなぁおい。やってらんねぇなぁおい」
    菅生は歩きながら地球に向かって嫌味を言っている。その風貌た
   るや、およそ水を無くした金魚のようであった。
   「とりあえずダイエーまでは歩こうよ。あそこまで行けば涼しいからさ」
   「帰り道。俺には無理かも知れん」
   「やらないで後悔するよりもやって後悔した方が良いって」
   猫背になり、とぼとぼと歩く菅生の横で佐久間は諭す。
   「結局は後悔だ」
   「もおー」
    菅生の背中は照りつける太陽から離れるようにどんどんと丸くな
   ってゆき、自分の影と話すような状態までしな垂れていた。アスフ
   ァルトの所々にはその短い生涯を全うし、裏返ったまま事切れた蝉
   の死骸があった。

    そんな中、あっ、と佐久間が声を上げた。それに気づき、菅生は
   垂れていた頭を上げた。
    二人の進行方向に、煙草を蒸かしながらガードレールに尻を敷く
   男が見えた。
    ――面倒だ。
    菅生の頭はそれで一杯だった。
    男は二人に気づいた様子で、煙草を片手に近づいて来た。佐久間
   の足は完全に止まっている。
   「一(ニノマエ)……」
    菅生は呟いた。
    とても面倒な事になった。佐久間に合わせて仕方なく菅生も立ち
   止まる。
   「久しぶりだな。由香里」
   「由香里は、死んだよ」
    一が言うか早いか、佐久間は冷たい目で彼を見ながら強く言った。
   「のぶくん、煙草吸うようになったんだ」
    佐久間は続ける。
   「記憶は残ってんだな。死んでねぇじゃねぇか。なぁ由香里」
   「僕は由香里じゃない!」
    佐久間の咆哮。菅生は佐久間がこんなに声を荒げる事を見た事が
   無く、少し驚いた様子だった。
    一は菅生が横にいるにもかかわらず、彼の方をちらりとも見ずに
   佐久間に近寄ってきた。ただでさえカフェイン切れによる苛立ちが
   菅生を襲っているのに、それによってさらに苛立ちは増してゆく。
   「僕? くはは。お前ってそんな女だったか? 髪もこんなに短くしちゃ
   ってさ。俺と付き合ってた頃はそんなじゃなかったよなぁ?」
    佐久間の右手は震えるほど強く握られていた。菅生にはそれが
   怒りによって震えているようにしか見られなかった。
   「……うるさい」
   「一昨年の夏、菜穂は死んだよ。クールー病だ」
   「……うるさい」
   「口には出さなかったが、恐らくお前と俺を憎みながら死んでいっ
   たんだろうなぁ」
   「……黙れ」
   「菜穂の最期は悲惨なもんだったぞ? 何せ口も聞けず目も見えず、
   聴覚だけが生きていたんだからな」
   「……うるさいって」
   「一方俺に人の心を優しい由香里ちゃんは自分の事しか考えずに俺
   をフってひどく疎遠になった」
   「……黙れよ」
   「なぁ? 佐久間由香里?」
   「黙れ! 僕はもう由香里じゃない!」
    佐久間の怒号に、彼らに関係の無い通行人は振り返り、怪訝な表
   情で歩を進める。

    ――最悪だ。全く面倒だ。

    菅生は声を荒げたのちに黙りこくった彼の横で、眉間に皺を寄せ
    ながら世界を恨んだ。
   「黙るのはお前だろう? 何が僕だ? 何が男になっただ?今まで何人
   の人間がお前を心配してきた? 裏切ったのは誰だ?」
    一は佐久間を問い詰め、追い詰めてゆく。佐久間は今にも涙を流
   してしまいそうな様子だ。それを見て菅生の苛立ちはやがてピーク
   に達した。
   「信也(ノブナリ)。お前やっぱ最低だわ」
    菅生の一に対する一瞥。そして佐久間のその細い腕を無理に引っ
   張り、スーパーの方向へ歩く。
   「また鬼ごっこか? くはっ。実にお前らしいなあ。優しい由香里ちゃ
   んよ」

    一は追っては来なかった。しかし佐久間は部屋を出た時とはうっ
   てかわってだんまりを決め込んでいた。
   「気にしてんのかよ。お前らしくも無い」
    菅生は佐久間に向かってそう言うが、返事は返って来なかった。
    その代わり、俯いたまま佐久間はぼそりぼそりと話し始めた。

   「事の発端は僕が中学に上がる直前だった」
    菅生は事実しか知らずに彼と付き合ってきた。尤も、高校以前の
   佐久間の様子は知らなかったが、知る必要も無いと考えていた。
   「進学で浮かれていたのもあって、自転車で遊び回ってた。僕の不
   注意だった。見通しの悪い交差点だった」
    虚ろな目で自身の影を踏みながら佐久間はか細い声を喉から絞り
   出している。
   「もういい。何も話すな。考えるな」
   「僕は車に跳ね飛ばされた。それこそ人形のようにね。事故前後の
   二、三日間の記憶は無いんだけどさ、目撃者の言葉でそれを知った
   よ」
   「もういい」
    菅生の言葉を無視して、佐久間は続ける。
   「大手術らしかった。脳に損傷が見られた。医者は生きてるだけで
   も奇跡だって言ってたよ」
    菅生はそんな彼の様子を察し、もう何も言えなくなっていた。
   「それからさ、後遺症も無く無事に大船高校生になった。でもね、
   高校に上がってすぐ、自分が誰かに操られているような感覚が僕の
   中に生まれた。まるで女である事を世界から否定されるような、ね」
    汗が菅生の頬を伝う。それが冷や汗なのか、暑さによるものなの
   か、彼には分からなかった。
   「苦しかった。両親には言えなかった。寧ろ、誰にも言えなかった。
   学校も休みがちになったしね。祐介も知っての通り、僕は一年生の
   夏休みまではセーラー服を着ていた」
    アスファルトの照り返しが二人を蒸す。道路脇の植え込みには誰
   かが捨てたであろうコーヒーの空き缶が落ちており、菅生はまた苛
   立つ。
   「身体にも徐々に異変が見られた。日に日に体毛は濃くなっていく。
   少なくとも普通の女学生として生きていたんだ。のぶくん……一と
   交際を続けながらね。でもそのうちに雨具やら何やらで全身を隠せ
   る雨の日にしか登校出来なくなった」
    菅生は記憶の砂漠を掘り返す。
    そういえば、こいつは雨の日以外に学校で見かける事はなかった。
   「でも、遂にその日はやって来た。由香里という概念は死んで、僕
   になった。当時の友人は皆気味悪がって離れていったよ。友達を続
   けてくれたのは、菜穂と祐介だけだった」
    佐久間は歩きながら言う。ダイエーはもう目の前だ。

   「はい、昔噺はおしまい! さあ、コーヒーと白子の調達だ!」
    佐久間は、急に元の馬鹿に戻る。菅生は少し面食らったが、それ
   でもいいと思えた。
    しかし出不精な佐久間には、やはり好物を購入するという思惑が
   あったようで、彼は少し安心した。

    ダイエーの自動ドアが開いたと同時に、涼しい風に包まれ、いら
   っしゃいませ、という店員の元気な声が店内に響いた。
 



    前の話へ  TOPへ  次の話へ

 

 

inserted by FC2 system