2.

     菅生は天才的だった。何がだ。人心を掌握する事がだ。
    いつの間にか僕は彼女と交際を続けるに至った。しかし彼女は少
   しずつ僕から離れ、菅生に取り付く事が多くなった。
    錯覚だったのだろうか。違う。僕はあの眼を幾度と無く見てきた。
   人を見下す眼だ。
    自分の頭がおかしいのは、自分が一番分かっている。苛立つから
   殺そうと思った。およそ気狂いだ。
    本来は在るべき筈の人としての機能が自分には備わっていなかっ
   た。ただ其れだけだった。
    それでも僕は、彼女を愛した。
    彼女も少なくとも其れに応えてくれたように思う。いつかの約束
   は、もう果たされない。
    菅生は頭の出来が良かった。根は馬鹿だが、機転が利き、教わる
   事はぐいぐいと吸収し、人の考えのベクトルを替えさせる。総てが
   僕に足りないものだった。
    妬ましい。恨めしい。悔しい。殺したい。憎い。苦しい。殺した
   い。

     彼女は僕に笑いかけてくれた。僕に良心を教えてくれた。人であ
   る事を肯定してくれた。彼女は僕にとって特別だった。
    しかし彼女は僕には見せた事も無い表情で菅生と談笑する。心か
   ら勝ちたい、と思った。自分の方が優れているという事を証明した
   かった。
    人間性では劣り過ぎている。勝ち目は無い。そう考えた僕は知識
   欲の塊になった。
    この世の中の総てを知る。さすればきっと彼女は褒めてくれる。
   また笑いかけてくれる。
    其れがそもそもの間違いだった。結局は何をしても僕は僕だった。
    由香里は消えた。由香里という概念が、消滅した。あの時、僕は
   何と言ったんだっけか。由香里、という存在は彼女の主観からはこ
   の世から消えた。それを“死”と捉えて良いものなのか、僕には分
   からない。

     肉体から精神が消えた時、それを死と考えるのか。肉体が精神を
   拒んだ時、それも死と考えて良いものなのか。それでは、由香里と
   いう事象は死を経験した事になるのか。

     空が少しずつ白を重ねてゆく。今、この瞬間にも何処かで誰かが
   死んでいる。
    肉体が生存権を剥奪された時、本人が本人と認識しなくなった時
   精神が肉体を否定した時。
    これらの場合に死が生まれる。
    よって由香里は死んでいるのだ。
    少なくとも、アレは由香里の肉体を持つ何かであって、由香里じゃ
   あない。

     ……虫唾が身体中を這い回る。

     菜穂は生存権を剥奪され、死んだ。
    では由香里は?
    由香里のイドが由香里であることを否定した時、彼女は一度目の
   死を経験した。そして生存権を剥奪された時、二度目の死を迎える。
   そう思わざるを得ない。そう思わないとやり切れない。彼女の主観
   では、もう由香里はどこにも存在しない。

     空が、少しずつ明るみを帯びてゆく。頭がぐらぐらと揺れ、記憶
   が途切れ途切れになる。思考もずたずたに寸断され、考える事もそ
   ろそろちぐはぐだ。

     其の時にはもう僕は人ではなかったように思う。


    「なあ、菅生?」
    返事をしない菅生の腹にありったけの力で蹴る。
    土から引き抜いた雑草のような唸りを吐き出しながら、菅生は床
   を転がり回った。
    手脚は電源コードで何重にも縛り付けてある。僕の最期の悪あが
   きである。
   「もう十何年近く前の話だよ。あの頃からずっと俺は狂ったままな
   んだよ。お前のお蔭でな」
    僕は菅生の顔にオーバードーズによる吐瀉物をぶち撒ける。
    其の時彼の唇がしんや、と動いた事に僕は余計に腹を立てた。
   「シンヤじゃないよなぁ? あいつは由香里だよなぁ? くはは、イモ
   ムシみたいになりやがってよ。今頃有名学者様の由香里はどっかで
   講義でもしてるんだぞ? なぁ菅生。おい」
    もう声も出せない様子だ。肉体は衰弱し切っており、唇は乾燥に
   よりひび割れ、便も垂れ流している。
    その眼だけが僕を突き刺す。
   「それだよ。その眼だよ。人を見下したような蔑んだような眼。俺
   が最後まで悪人で良かったなぁ。通り魔なんかよりもずっと幸せだ
   ろう? 理由あって殺されるんだからなぁ」
    菅生はもう何も言えない。僕にももう他に道は無い。
    僕は知らない内に泣いていた。歓喜によるものか、悲哀のそれか
   は、もう分からなくなっていた。
   「俺は俺なりに感謝してるんだよ。一番成りたくなかった自分に成
   れたんだよ。それに成りたかったんだよ。お前のお蔭だよ」
    分かる事はただ一つだ。
    僕は僕だった。
   「お前さあ、あの時俺に最低って言ったよな? そうだよ最低だ。最
   低だろ?」
    菅生は何も言わない。
   「最低だろってよぉ! 何か言えよ! 言ってくれよ!」
    瞼の裏側から体液がほとばしる。僕のキャパシティはとっくに臨
   界点を突破している。
    そして菅生の表情は、何か悲しいものをみるようなものに変わっ
   ていた。道路の真ん中で轢死した猫の屍骸を見るような、そんな表
   情だ。

    「ごめんな」
    菅生は渇いた喉を鳴らし、言った。

     その後の記憶はどうも曖昧だ。
    いつの間にか首からごぽごぽと空気とどす黒い血の混じった音を
   繰り返し放つ何かと、血濡れた果物ナイフが其処にあった。
    くはっ、くははは。
    汚い笑みが部屋を満たす。
    やっと、本物の悪人になれた。やっと、ゴール地点に辿り着けた。
   やっと、やっと。やっと人に成れた。
    突然の嘔吐。それと同時に、求めていた自分が無くなった感覚。
    いや、これで良いのだ。僕は僕だった。ただの悪人だ。罪人だ。
   蛙の子は蛙だ。
   「なあ、菅生?」
    菅生は何も言わない。皮一枚で繋がった首を床に投げ出し、赤い
   泡を吹く。
    こぽ、こぽ。心臓と肺の活動が弱まり、その音は段々と弱くなっ
   てゆく。
    触ってみると、人の温かさを感じた。こんなになってもまだ人で
   居られるのか、と僕は心底感心した。
   「俺たち、幸せだったよな? ありがとう」
    返事の代わりに、菅生の肺はこひゅ、と最後の空気を赤い泡と共
   に体外へ送り出した。

     残っていた“タマ”を総て噛み砕く。それは口内でもろもろと粉
   に変わり、水分を吸ってゆく。頭の中では不協和音のファンファー
   レが鳴り響いている。
    あんなに憎かった菅生はもう居ない。あんなに愛しかった由香里
   ももう居ない。狂っていたのは、僕か、世界か、どちらだったのだ
   ろうか。
    ――もうどっちでもいい。僕は高揚感と共に自分の大腿部にナイ
   フを押し当てた。



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