10時間くらい天井を見ている
 


    1.

     揺れていると思って居たのは自身の主観でしかなかった。幾つも
   の星と在る筈の無い陽炎。寄りかかるには脆過ぎる、燃えてからで
   は遅過ぎた。
    窓の向こうからは太鼓の音が聞こえる。そう云えば今夜は村の豊
   作祭だったことを今になって思い出した。
    結局僕は僕でしかなかった。客観視できる彼女はもう居ない。
    今直ぐにでも脳漿をこの場にぶち撒け、水道水で脳を洗いたい。
   この憎い両眼を穿り出し、視神経すらも切り裂いてやりたい。
    痛みに悶えるであろうが、残念ながらこの場所に居た筈の人間は
   皆豚箱に放り込まれ、誰も居なくなった。幾年もの月日をこの場所
   で過ごしたが、一つたりとも良い思い出などなかった。
    いや、きっと僕なんかが思い出なんてものを求める事自体が傲慢
   だったのだろう。
    悪人は悪人らしく、死んだように生きてゆくべきだったのだろう。
   今更悔やんでももう遅い。
    何気無く自分の右手を見た時、鉄錆が手のひらに付着している事
   に気がついた。
    長い時間何も手入れして居なかったこの部屋は脆く、腐り、錆び
   付いていた。

     あぁ、そうでした、俺こんなでした。君と会う前自分嫌いでした。

     誰かの歌声を思い出す。
    ボロボロのカーテンが揺れる度にそれが大きな綿アメのように見
   え、体が滑ってゆく。
    近くにある。手を伸ばす。その場所にはもう何も無い。遠く、遠
   く。
    何時もは由香里が居た。その筈だった。今日も、明日も、明後日
   も。
    ならばいっそ殺してしまえばいいじゃないか。殺して煮て喰って
   しまえばいいじゃないか。そうすると彼女は僕になるじゃないか。
   一生僕と一緒に一生一緒に一生死ぬまで一緒一生生き続けるじゃな
   いか。
    狂っている。

     くはは、と口の端から笑みが零れた。その笑みはいつの間にか涎
   に変わり、一筋の粘液になる。これが僕の望んだ世界か。悪くない。
   良くもない。どちらかと言われるとどちらでも良い。いや、良くな
   い。狂っている。

     彼女の声が頭の中を反芻する。
    のぶくん。
    思い返せば、彼女が僕の全てだった。
    誰にも信用されず、誰からも蔑まれ、助けを求めたとて其の手は
   躙られ、狂わされた。
    僕に触れようものならその人間は天然痘よろしく避けられ、拒ま
   れ続けた。
    其の内に僕は思ったのです。僕は生まれてきてはいけなかったの
   だと。そう、思ったのです。
    生まれる、という事は人として成り立たなければならないと知っ
   たのです。其れが生きるという事なのでした。僕は生まれてきては
   いけなかったのです。
    もしも本当に神様と云う存在が居るのであれば、私は願います。
   殺して下さい。
    自分を殺すのは恐ろしいです。ですが人が私を殺せば何の問題も
   ありません。
    そして私は一つの結論に行き着いたのです。そうだ。人に殺され
   るような憎まれるべき人間に成ろう、と。
    その瞬間から私の世界は一変しました。今迄悪人だと思っていた
   人達は、まるで天使のように見えました。
    そして僕をいつか地獄へ突き落としてくれる。そう思ったのだ。
    罪人の子は罪人らしい。なればこそ、僕は最期迄憎まれてやる。
    罪人、と云えば先ずはドラッグだ。そう思って飛びついたのがこ
   の“タマ”だった。
    Sでもペーでもクサでもない。もっと人為的な物。人を狂わせる
   べく人が作った物。
    ルートも自身で開拓した。やっとスタートに辿り着けた。
    そう思っていた僕は、彼女に出会ってしまった。或いは必然だっ
   たのかも今は知れません。
    ニット帽を被った彼女は、僕を庇った。
    そんな経験は人生で初めてだった。
    当たり前のように彼女は僕を人間だと言ってくれた。
    其れが、妙に嬉しかったのです。
    彼女は佐久間由香里と云った。

     彼女は僕に関わったお蔭で陰湿な嫌がらせを受けた。彼女は何も
   言わなかった。さもそれが当然のように、僕に笑いかけてくれまし
   た。
    当然僕は離れようとした。こんな人間に迷惑をかけてはいけない。
     異常な精神の何処にそんな思考が有っただろうか。
    彼女は離れるばかりか、近づいて来ました。今迄の人間とは訳が
   違った。
   「鬼ごっこ、楽しいね」
    僕は床を思い切り踏み付けた。腐った床はぼろりと崩れ、其処か
   らは泥の臭いが放たれる。
    今は何時だ。時計は何年も止まったままだ。

     狂わせたはずの僕の脳が、佐久間によって浄化されるような錯覚。
    意識が遠のく程、昔の出来事。初めて人と成れた時間。僕の人生
   で唯一の人を、自分を憎む事を忘れていられた時間。
    彼女は頭が良かった。いつの間にか僕は、自分を殺そうだとは一
   寸も思わなくなっていた。
    菅生に出会う迄は。
 



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