衛星放送後の夜更け
 


    菅生は紙と紙がこすれ合う音に反応し、ふと目を覚ました。
    質素な壁掛け時計は二時を指してはいるが、窓の外は漆のような
   艶やかな黒で、現在は深夜の二時だという事を暗に物語っていた。
   「良い加減俺の部屋で勉強するのやめてくれよ」
   「あ、ごめん、起こしちゃった? 寝てていいよ」
    佐久間はいつも通り、深夜まで勉強を続けていた。
    いつも同じような時間帯に目が覚める。恐らく紙と紙がこすれ合
   う音は、佐久間の変に分厚い本のページをめくる音だろう。
   「何様だお前。ちょっと一服してくる」
    そう言うと菅生は佐久間との会話もそこそこにベランダへと出た。

     夏が終わり、秋の風が吹きかけており、その寒さ菅生の意識をよ
   り明晰化させてゆく。世間はもう衣替えシーズンだ。
    菅生のアパートに居候を始めてからというもの、佐久間はずっと
   何か分からない勉強を続けている。
    勉強と云っても、恐らくは大学の課題かだろうと菅生は心の中で
   毒づいた。フリーターには到底縁の無い話だったからだ。

     カチリとライターに火を灯し、咥えた煙草に近づける。フゥ、と
   漆のような夜空を見上げた。
    細いとも太いとも言い難い、十六夜の月。夜行列車か貨物列車か
   遠くからかたん、かたん、と線路を揺らす音が聞こえる。
    深夜は、いくら鎌倉と言えども辺りは静寂に包まれ、遠くの音も
   大きなそれならば聞こえる事がある。
    秋風が、菅生の吹く煙をかき消してゆく。
    それが彼には何か物悲しく思えた。

     菅生はちら、と部屋の佐久間に目をやる。
    分厚い本を熟読しながら、何やら一生懸命ノートにペンを走らせ
   ている。
    馬鹿がいっちょまえに勉強なんぞしやがって。

     佐久間は、実は勉強家だ。自分の知らない事があるとそれがひど
   く気に食わないらしく、何かと調べる癖がついている。要は“知り
   たがり君”である。高校時代はよく図書館に連れて行かれたものだ。
    それが功を成し、都市部の大学に進学したらしいが、何を専攻し
   ているのか菅生は知らない。それどころか、どこの大学だったのか
   さえも憶えていない。

     いつもと同じように空いたビールの缶に煙草の火を落とす。缶の
   中には飲み口に届かなかった少しのビールが残っていたらしく、じ
   ゅ、と小さな音を立て、煙はしゅんと弱くなった。

    「なぁ、佐久間。お前一体何の勉強してるんだ?」
    窓を開け、ベランダ用に用意されたスリッパを脱ぎ捨てるなり菅
   生は尋ねた。
   「んー、脳科学? とか心理学? とか哲学とか……まぁ各講義によっ
   て変わるけど」
    何やら小難しそうではある。菅生には到底出来ないであろう芸当
   だ。
   「でもねぇ、人の心理とか考え方ってすごく興味深いんだよ。僕は
   少なくとも書生の中で真面目な方だろうね」
    だろうな、と菅生は心で唱えた。
   「寝ないの?」
    佐久間が本から目を離さずに菅生に言う。
   「一本煙草吸ったら眠気がすっ飛んじまった。飲み直す」
    こんなことはザラだった。深夜に目が覚め、煙草を一本吸ってい
   る内に睡魔は遠のいてゆく。
    それもこれも、全て佐久間のせいだ。
   「祐介、実はそれは医学的に証明されているんだよ。ニコチンには
   血圧も心拍数も上げてしまう作用があるからね」
    馬鹿のくせに博学。菅生は佐久間を何の気なしに睨みつけた。
   「それよりこの資料見てみてよ! 実に興味深いんだ!」
    佐久間は本のページを開き、ずい、と菅生の目の前に晒した。
   「なんだこの赤黒いの」
   「これはね、銀河系中心部の衛生写真と脳内のニューロンとの比較
   写真なんだけどね、その二つが酷似しているんだ」
    菅生はへぇ、と小さな声を出した。
   「このロマンは祐介には分からないかなぁ」
    佐久間は残念そうに大袈裟に肩を落とし、机に戻る。
   「もしかしたら、宇宙っていうモノは誰かの脳内なんじゃないかっ
   て推論だよ。だから、僕たちは誰かの脳の中で生活をしている。全
   部そのヒトの思い通り、ってワケだよ。まぁ確証なんて何処にも無
   いし、答えの無い哲学になっちゃうんだけどね」

     ふぅん、と菅生は小さく相槌を打ち、冷蔵庫から冷えたモルツを
   取り出す。
 プルタブを開けると缶の中に閉じ込められていた二酸化炭素が逃
   げる快音が部屋に響き、菅生の身体はアルコールを摂取する準備を
   始める。

    「祐介、神様って信じるかい?」
    菅生が缶に口を付けようとした瞬間、佐久間はさみしげに言った。
    それを気にせず彼はごくごくとビールを喉に通してゆく。
   「信じていたら、どうする?」
    菅生は佐久間に問い詰める。
   「この世の出来事は全部神様が仕組んだってか? 笑わせんな。俺は
   俺の考えの元で行動して、ヒーヒー言いながら生きてる」

    「その考え自体も、神様……っていうか、さっきの大きなヒトが仕
   組んだものだったら?」
    菅生はまたビールを喉に流し込む。
   「うるせぇよ。俺は俺だ。誰も仕組んでないし、仮にそうだとした
   らなんでこんなにもビールが美味いんだ?」
    そう言うと彼は半分ほどに減ったビール缶を片手にベッドに座り
   込んだ。
   「あっはは。馬鹿だなぁ。それでこそ祐介だよ」
    佐久間はあの頃と同じようにからからと笑い、再び机に向かう。
    その姿は、どこか諦めに似た雰囲気を感じ、彼が何か義務感のよ
   うなものを感じているようにも見えた。

    「もしも世界の全てが決まっているなら。僕は全てを知りたい。そ
   れが僕の由香里に対する最大の贖罪になると考えてるんだよ」

     ――由香里。

     佐久間の眼は何かを決心したような面持ちで言い放ったため、菅
   生には何も言えなかった。

    「知ってる? アルコールで潰れた時は睡眠じゃあなく気絶に近いん
   だよ」
    こいつはいちいち面倒だ。
    博学なんだか雑学なんだか知らないが、いつも要領を得ない彼に
   菅生は苛々していた。

     こいつの全てはもう存在しない筈の由香里の亡霊に憑かれている。
    それは良い事なのか、悪い事なのか。

     そんな事すら菅生は判断しかねていた。
   



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