吾輩は猫と出会う
 


    ババ屋を出ると、ひどく雨が降っていた。
   「バァちゃーん! 雨すげぇよ! すげぇー!」
    そう叫んだのは康太だった。
    僕たちの自転車は、ただでさえボロボロなのに、雨ざらしになっ
   てしまっている。これではスクラップにもならなさそうだ。
    桔平と絢子は少ししょんぼりした様子で、店内のストーブの前に
   座りながら麩菓子を咀嚼している。
   「傘……持ってないよ」
    僕は無意識にそう呟き、ストーブの前の彼らと同じように雨と真
   冬の寒さに凍えそうになっていた。
   「ありゃあ、すごい雨だぁ。流されっちまいそうだなぁ」
    店の奥からのそりと出てきた初老の店の主人は、穏やかな口調で
   そう言った。
   「ジイちゃん! すっげぇ寒いよ! 寒い!」
    康太は何故か上機嫌で、店の主人の元へ駆け寄った。コンクリー
   トが敷かれたババ屋の床は、瞬く間に康太の靴裏の跡でいっぱいに
   なる。
    近年稀に見る大雨。小学生の僕たちにとってはどうしようもなく
   憂鬱に感じられたが、康太は真逆で、むしろ珍しい物を見た、とい
   うような様子だ。
   「こりゃあおめぇら、山には登れんねぇよ。止むまでここに居な」
    主人はひょこひょことコンクリートに下りながら言う。
    主人には片脚が無かった。当時の僕たちには理解出来なかったが、
   マダガスカル出兵の際に無くしたらしい。
   「わぁ! ジイちゃん! カープのちゃんちゃんこだ! いいなぁ!」
    康太が主人の着用していたちゃんちゃんこに羨望の眼差しを送る
   と、くるくると店主の周りを走り回り、それをくれとねだるのであ
   った。
   「こりゃあやらんぞ! 母さんがカープの優勝祝いに夜なべして作っ
   てくれたんぞ!」
    かぁっと少し強めに彼は康太に言うが、その顔は笑っていた。側
   にいたお婆さんもふふ、と恥ずかしそうに笑っている。
    何しろ、この夫婦には子はおらず、孫を見ているような感覚だっ
   たのであろう。いつも彼らは僕たちに笑いかけてくれた。優しい、
   人たちだった。

     ババ屋は元々は薬の小売店だった。その名残りとして、隣の部屋
   には多くの引き出しが高く積み重ねてあり、薬、と書いた小さな看
   板があった。
    少し前までは、少なくとも僕が小学生になる前までは、夫妻で御
   用聞きをしていた。
    しかし年齢のせいもあり、それがなかなかに困難になったたため、
   最近では終日店にいる事が多くなっていた。

     みぃ、と甲高く、雨音にかき消されそうな鳴き声が聞こえた。
   「あーっ! バアちゃん! ネコだ! ニャンコ先生だ!」
    康太は素早く振り返りながら元気に言う。
   「あらあら。まだ小さいじゃないの。雨宿りに来たんかねぇ」
    優しい初老の店番は正座を崩し、ゆっくりとした動作でコンクリ
   ートに下りようとするが、それを由香里が制止した。
   「おばあちゃん、危ないよ」
    それをストーブ越しから見ていた僕は、何か疎外感を感じた。自
   分の学年が彼らより一つ上だとか、そんな小さな事では無く、言葉
   に出来ない寂しさがこみ上げて来たのだ。
   「ニャンコ先生、寒いんかなぁ?」
    確かに康太が言うように、その子猫は濡れた身体を小さく震わせ
   ていた。
   「よし! しょうがない! オレのユカリドロップをやるぞ! 特別だぞ
   !」
    康太はポケットから小さな飴玉を取り出し、子猫の前に置いた。
    しかし、子猫は少しだけその飴玉の様子を伺い、気にせず尻尾ま
   で丸まって震えている。
    見かねた主人はひょこひょこと子猫に近づき、ひょい、と持ち上
   げた。
   「さあ、大ちゃん踊りだスよ!」
    子猫を抱きかかえながらそう主人が言うと、康太は歌いながら踊
   り出した。よほどテレビジョンが好きだったのだろう。
    そんな康太を優しく横目で見守りながら、主人はよいしょ、と絢
   子の膝の上に子猫を降ろした。その際に子猫は小さく喉を鳴らした。
   「この子、何処から来たんだろうね」
    絢子と由香里はストーブに当たりながら優しく子猫の背中をさす
   っていた。
   「首輪、付いてないね」
    僕もその輪に混じろうとするが、何故か先ほどの疎外感が強く感
   じられてしまう。
    居た堪れなくなった僕は、ぷかぷかとゴールデンバットを蒸かす
   主人に駆け寄った。
   「なぁ、ジイちゃん。こいつ、ユカリドロップ喰わんかな」
   「んー、子猫にはミルクだと言われてきたかんなぁ。母さん、ホッ
   トミルクでも出してやんな」
    言うなりお婆さんははいはい、とゆっくりと店の奥へ消えて行っ
   た。
   「ヒロユキよ。お前が一番にぃちゃんなんだから、しっかりしな。
   猫にミルクやって、みんなに恰好良いとこ見せてやんな」
    それは、主人から僕に対する配慮だった。
    思えば、いつもそうだった。
    お前は長男なんだから。お前は年上なんだから。お前は男なんだ
   から。
    康太は依然くるくると踊りながら下手くそな歌を歌っているし、
   桔平や由香里、絢子も心配そうに子猫の背中を撫でている。
    ――僕がしっかりしないと。
    子供ながらに、何故か無意味な責任感を抱いていた。
    未だに、そうだ。


     未だに、だって?


     ジリリリ。
    その瞬間、頭の上でけたたましく電子音が鳴り響く。
    二秒と経たずに、隣の住民が僕の部屋に向かって壁を叩く音がす
   る。
   「おい!リーマンのにぃちゃん! 朝だぞ!」
    そして僕は寝惚けたまま、目覚まし時計のスイッチを押した。ふ
   あ、と欠伸をし、やや大袈裟に伸びをする。
    毎朝こんな調子で、僕の一日は始まる。
    目覚まし時計と、隣人の親父の怒鳴り声。
    未だにあの頃のような変な責任感と疎外感を携えて、僕は口うる
   さい上司のいる会社へ出向いている。
    何もあの頃と変わっちゃいない。少し環境が変わっただけである。

     あの頃と云えば、あの後子猫はどうなったんだっけ。
    そうやって大昔の出来事を必死に思い出そうとしながら、僕は顔
   を洗う。だが、当然思い出せる筈も無く、僕は朝礼の時刻までに出
   社する事だけを考えるようにした。

     寝癖をあらかた直し、スーツとバッグを手に玄関を出て、部屋に
   鍵をかける。
    すると、隣人は玄関から顔を出しながら、言うのである。

    「男ならバシッと決めていけ! バシッと!」

     えへへ、と小さく会釈をし、足早にアパートの錆び付いた階段を
   降りてゆく。
    僕は隣人のその優しい表情と強い口調を、夢の中のババ屋の主人
   と無意識に重ねていた。
   



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