ペンギン
 


   「よぉ、元気か」
    信也くんは、私の部屋に入るなりそう言った。正直なところ元気
   な訳がない。ただ、息をしているだけ。そんな状態なのだ。
   「まぁ、どうせ何も答えられないと思うんだけどさ、聞くだけ聞い
   てくれ」
    彼はそんな私の状態を知っている。話すことはおろか、身体を動
   かすことすら出来ない。目も閉じたまま、聴覚だけが機能している、
   まるで人形。
   「俺は前までお前が植物人間の状態だと思ってた。……違ったんだ
   な。悪かった」
    以前私は大きな病院で脳波を計測されたらしい。その時私の両親
   は初めて私の聴覚だけが機能している事を知ったそうだ。きっと私
   の両親がそれを伝えたのだろう。
    彼の言葉には申し訳ない、というような重さがあった。
   「で、色々調べたよ。お前がなんでこうなったか。この症状は何な
   のか」
    私の身体は頷くことすら許されない。これが神様のイタズラなら
   ば、なんて非道いことをしたんだ、と私は一生恨んでいいと思って
   いる。
   「恐らくクールー病だろう」
    彼は聞き慣れない言葉を吐く。
    クールー病?
   「まぁ現代の日本ならなかなか症例の無い病気なんだが、お前の血
    縁関係と史実を元に、俺なりに調べたのちの、あくまでも推論だ」
    正直な話、話がわからなくなっている自分がいるにも関わらず、な
   おも知りたがっている自分も確かに感ぜられ、複雑な心中だ。
   「クールー病ってのはしばしばヤコブ病の一種と言われていてだな。
   言うなれば食人病みたいなもんなんだ」
    食人……。
    私は聞き慣れない言葉と、現代日本では到底しないであろう行動に
   困惑していた。
   「その症状は、簡単に言うと脳が萎縮して、お前のような状態にな
   り、やがては死に至る。クールー病とヤコブ病の決定的な違いは人
   間の蛋白質を身体に取り入れたか否かだ」

    脳が、萎縮……。
    人間の、蛋白質……。

   「お前、人を喰った事は無いか? というよりも、喰わされた事は無
   いか?」
    正直な話、心当たりなど何処にも無い。
   「落ち着いて聞いてくれ。まぁ、こんな事を急に言われて落ち着け
   ってのもおかしいし、落ち着いてるかどうかも俺には分からんが」
    彼の言う通りだ。落ち着ける筈が無い。
   「順を追って説明するぞ。まず、クールー病は元々パプアニューギ
   ニアの風土病だった。その一部の地域では葬儀の際に、死んだ人間
   の脳を喰らっていたんだ」
    ……突拍子もない話。彼の声は先程よりも低い位置から聞こえて
   おり、床に座った様子が伺えた。
   「何故死人の脳を喰らうか。それは死んだ人間の心や記憶、いわば
   魂が脳に凝縮されていると彼らは信じていたからだ。彼らは死人の
   脳を喰らい、その人間の魂を自らの身体に取り込もうと考えた。日
   本では骨噛みって風習もあるがな、同じようなもんだろう」
    彼は淡々と説明を始めたが、少し沈黙を作った。
    そしてかちり、という音と、ふう、というため息のような音が聞
   こえた。煙草、だろうか。

    「日本では人食いの風習は全く無かった。日本人の倫理感に反する
   からだ。しかし、その風習を受け継ごうとしている奴等が日本に存
   在している、という可能性は否定出来ない」

     まさか。

    「お前、確か祖父がイギリス人のクォーターだったよな」

    私には既に理解の範疇を超えている。もしも身体が動いたならば
   彼の頭を思いきり揺すっていただろう。
   「詳しく説明すると、十九世紀、一時期パプアニューギニアはイギリ
   ス、ドイツの植民地だった。そして、食人文化が彼らの目に留まる。
   大半の英独民衆はそれを良しとしなかったが、感銘を受けた人間も居
   た。そいつらの中の一人がお前の先祖だった」
    信じられない。到底考えられない。
    窓からそよそよと秋の風が入る。それらが順に私の髪を撫でてゆ
   く。いつの間にか、彼の言葉は鋭くなっていた。

    「脳の食感は白子に似てると言われている。お前、親御さんに“白
   子に似た何か”を食わされた憶えは無いか? 血縁者が死んだのに
   葬儀をしなかったとかいう憶えはないか?」

     心当たりは、十分にあった。
    祖父の死に目にも、祖母のそれにも会えなかった。
    全て事ののちに両親から聞かされていた。
    そして夕食は白子が出てくる事が多々あった。
    まさか。
    まさか。

    「まぁ、知ったところでもうどうする事も出来ないんだ。親御さん
   がその気なのであれば、な」
    じゃあ何故、それを私に教えた?
   「お前が何も知らずに死んじまったら、俺の中に何か残りそうでな。
   佐久間にも合わせる顔が無くなっちまう」
    私の思考を読み取ったかのように彼は言う。
    その声にはどこか諦めに似た何かを感じた。

     ――友人として。
    あくまでも友人として彼は私に伝えたのだった。
    そこに私が介入する間はどこにも無かった。
    それが妙に、悔しかった。

    「これが俺なりに調べた結果だ。お前に意識がまだ有るのかももう
   俺には分からない。むしろ、有っても無くてもどっちでもいい。た
   だ単に、言いたかったんだ。俺のエゴだよ」

     私も言いたい事がある。

   「専門家じゃあないから本当のところは俺にも分からんがな。症状
   と家系図で、この結論に行き着いた。恨むなら、この世界を恨め。
   じゃあな」
    何故私がこんな目に合わないといけないのか。

       神様が、憎い。

      扉は彼によって開けられ、そして閉じられた。
    私だけの、空間。
    何故教えた。何故知った。

      下の階で、母と彼の話し声が聞こえる。
    信也くん。あなたが憎い。母が憎い。菅生が憎い。佐久間が憎い。
   世界全てが、憎い。

      声も出せず、身体も動かせない私は、また人形になる。
    自由の翼を失くした、およそペンギンのように。
 



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