心の在り処
 


    大きな月が僕たちを照らしていた。今夜の月明かりは妙に明るく、
   建物の屋根の先まではっきりと影を落としていた。
    突き刺さるような寒さの中、僕たちは何処へとも言わずに歩いて
   いる。何とも無く見上げた満月は真っ白で、子供の頃に読んでいた
   絵本のそれとは全く違っており、いつから月は黄色く表現され始め
   たのだろうかと無益な考え事をしてしまう。
    左手の先には由香里がいる。僕は月明かりによって作り出された
   影を見ているのに対し、由香里は空を見上げていた。
    ちらと見たその横顔はとても美しく感じられた。手を伸ばして掴
   もうとすると、するり、と消えてしまうような、儚くも美しいそれ
   だ。
   「鬼ごっこ、しているみたい」
    何の脈絡もなく(と言ってもそれまで話などはしてはいなかったが)、
   その薄い唇は動いた。
   「追いかけても追いかけても、何処まで行ったとしても月は私たち
   を見てる。鬼ごっこ」
    由香里は空を見上げたままそう続けた。僕はマフラーに埋もれた
   喉からうん、と小さく声を発した。
    人は何故こんなに小難しい事を考えるのか。僕には甚だ疑問に思
   えていた。きっと、人は進化しすぎてしまったのだ。知り過ぎたの
   だ。
    ネアンデルタール人に“心は何処にあるか”と尋ねたとしても、
   きっと分からないと言われるであろう。明日生きられるか、という
   よりも明日死なないで済むか、で彼らは必死なのだ。
    人間はせめて人間らしく、生物らしく、本能のみで良かったので
   はないか、と思えて仕方が無い。

   「またのぶくん難しい顔してる」
    気が付くと由香里の顔が目の前にあった。どうやら僕はいつの間
   にか歩を止めてしまっていたらしい。
   「悪い、歩こう」
    僕は言った。
   「のぶくんは私のパートナーなんだよね。そうなら、言う権利ある
   よね」
   「なんだよ」
   「そうやってさ、斜に構えるの止めなよ。いつもいつもそう。心配
   してる人だって居るんだよ? その人達に失礼だって思った事無い
   の?」
    由香里はそうまくし立てた。
   「そんなことない。俺はずっとこうやって生きてきて、これからも
   きっと」
   「人はね、独りでは生きていけないんだよ。自分を作らなくていい
   から、せめて私を見て」
   「ああ、見てるよ」
    僕はぎりぎりのところで言葉を発する。甘えてしまいそうな衝動
   に駆られる。
    彼女になら、由香里になら甘えてもいいんじゃないのか、と思え
   てきてしまう。
    それじゃあだめなんだ。僕は誰にも寄りかかってはいけない。そ
   れは弱い人間がする事だ。
   「人に甘えたり頼ったりするのが下手なんだよね。それなのに人が
   離れるのを怖がって。今ののぶくん、すごく辛そうに見えるよ」
    由香里ははぁ、と白いため息をついた。

    ――その通りなのかも知れない。自分が自分でいることが自分の
   アイデンティティ。捻くれたプライド。
    いや、もういいんだ。もっと、頑張らないと。
   「私といる時は頑張らなくていいんだよ」
    まるで僕の思考を読み取ったかのように由香里は言う。心を覗か
   れたようで、少しの不快感を感じた一方、安心している自分もいる。
    自分本位でしかものを考えなくなった僕からは到底口にできない
   言葉だった。
   「菜穂も心配してたんだ。あのままじゃあのぶくん独りになっちゃ
   うって。君は頭がいいし、すぐ物事を深く考えちゃう。それが君の
   良いところであって、駄目なところ」
    由香里という女はそんな事を平気で言う。そんな人間だ。恐らく
   僕は彼女のそんなところに惹かれたのだろう。
    対する彼女は何故僕の隣を歩くのか。こんな人間に利用価値なん
   てないし、一緒にいても楽しくも何ともない。
    正直、同情としか思えないのだ。
   「また何か考えてる」
   「ああ、うん。俺は何なのかって」
   「それを私に言うってことは、私に何か言いたい事があるんだよね。
   知られたくなかったら別に言う必要ないもんね」
   「いや、俺はただ」
   「助けて、って言いたかった?」
    僕は口をつぐむ。奥歯をぎゅ、と噛み締め、それと同時に口角が
   下がる。
   「助けてくれ、頼らせてくれ、甘えさせてくれ。本当はそう言いた
   いんでしょう?」
    由香里は再び視線を月に戻した。
   「ずっと聞こえてるよ。だから私は君と一緒にいるの。助けてあげ
   たいから。頼って欲しいから」
   「そんなもの、俺には必要ない。助けて欲しくもない。頼ったとこ
   ろで何になる? 金でもくれるのか? くはは。全部募金してやれ」

    急にすぱん、と冬の夜の街角に快音が響く。
    二秒後に僕は由香里に引っ叩かれたことを理解した。
   「ねえ、のぶくん。人の心って何処にあるか知ってる?」
    いつの間にか、僕たちは歩みを止めていた。
   「人の心はね、人一人の中にあるんじゃなくて、人と人との間にで
   きるものなの。人一人の中にあるのは“思考”。それが合わさって
   初めて心になるの」
   「……」
   「君の思考は、私の思考と分かり合おうとしてる。心を作ろうとし
   てる。それを君は妨げようとしてるの」
   「俺には、俺の生き方がある」
   「人あっての生き方でしょう? 菜穂だって、君と心を作りたがって
   るんだよ? 分かってるんでしょ?あの子のこと」
    僕は何も言わずにうなづいた。久しぶりに自分の影と見つめあう。

    “オマエハダレダ”

     当然、返事は無い。あるはずが無い。あってたまるものか。僕は
   僕だ。
   「君の辛さは君しか知らない。でも、私はそれを全部知りたいんだ。
   二人なら幸せ十倍辛さ半分ってね」
   「お前に何がわかる? 親が犯罪者、子は生まれつきの三白眼と噂
   だけで人は誰も近づこうともしない。世界に裏切られた気分だよ」
    僕は知らぬうちにポケットの中の右拳を握りしめていた。
   「友達になろう? トイレに行こう? 一緒に帰ろう? 奴らは偽善的
   に俺に接触してくる。そういう欺瞞が義憤を感じさせる事を奴らは知
   らないんだろうな」
   「知ろうとしてるから、知りたいから君に近づいたとしたら?」
   「知らなくて結構」
    僕は即答する。
    左手の手首は午後八時を指している。医師による日課の時間だ。
    僕はダウンのポケットからピルケースを取り出し、慣れた手付き
   で錠剤を手のひらに落とす。その中に合成麻薬が入っている事を彼
   女は知らない。
    ふらり、と近くにあった自動販売機に駆け寄ろうとするが、体が
   上手く動いてくれず、前のめりに僕は転倒した。錠剤は握りしめて
   いたため無事であった。
    そんな状況を目の当たりにし、彼女はそこに座ってて、とだけ言
   い、傍にあった自動販売機で水を買う。
    頭が重い。眼圧が高い。クソ、こんな姿見せたくなかった。
    はい水、と由香里はペットボトルを目の前に差し出す。悪い、と
   小さく声を出し、錠剤を口の中に放り込む。
    ペットボトルの蓋が開けられない。尋常ではなく手が震え、力が
   入らなくなっていた。
    それも彼女は何も言わずにかちりと開封し、渡してくる。それを
   受け取り、口の中で糖衣の溶けかけた錠剤を全て流し込んだ。
   「悪かったな」
    僕は情けが無いの言葉で頭が一杯だった。自分がこんな状況であ
   ることを自ら露呈し、あまつさえ水まで買わせてしまった。
    これのどこが独りだ。結局独りでは何も出来ないじゃあないか。
   「落ち着いた?」
    由香里が優しく言う。
   「ああ、悪い」
   「そうじゃないでしょ? 弱い部分を見せるのは悪いことでも何でも
   無い。それより感謝の言葉を求められてるの、気付かない?」
   「あ、ありがとう」
   「どーいたしまして!」
    由香里が、初めて笑った。
   「ちょっとここ座って居よう。休憩」
    由香里は道沿いの、植え込みの為のレンガに腰掛けた。そして彼
   女はぽんぽん、ととなりのレンガを叩く。先ほどの事で不安があり、
   僕は少しゆっくりと立ち上がり、彼女が叩いたところをめがけて身
   体中の力が抜けたようにどさり、と座り込んだ。
   「今無意識に見ちゃったけど、かなりの量の薬出てるんだね」
   「弱いやつが沢山。もちろんメインのやつもあるがな。不安になる
   んだよ、量が少ないと」
    手の震えとよろけたのは恐らく減退期のピークだったのだろう。
   セロトニンが大量放出されるまで30分。
    最近の記憶はどうも曖昧だ。“タマ”のせいだろうか。
   「辛いね、頑張ってね。って言うとでも思った?」
   「いや、別に」
   「君は独りじゃない。今手を貸したのも私だし、菜穂だっている。
   祐介……は駄目か。とにかく、決して独りじゃないんだよ」
   由香里は眠そうに目をこする。
   「君を見ているのは君だけじゃないよ。みんな見てるんだ。みんな
   の心を繋げてあげて。それが、あなたのけじめ」

     ――けじめ。

     今までの自分への、けじめ。

    「一人で心は出来ないんだよ。分かった?」
    僕は聞こえない振りをする。
    しかしそれも彼女の前では何の意味も為さなかった様子で、彼女
   は一人で納得したようにうんうん、とうなづいた。

     少しだけ、心が生まれたような気がした。




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