アンモナイトの化石
 


    もう五月だというのに、まだ少し肌寒さが残っていた。
    桜も遅咲きではあったが、立派に花を咲かせ新入生を迎え入れた
   し、若葉も増えてきている。
    晴天の日には雲が無い為、夜から朝にかけて高気圧によって冷や
   された空気が降りてくるらしいが、この寒さは異常だと思う。
    そして僕は教員室の扉を叩く。
   「おはようございます」
    我ながら、かすれた小さな声。
   「おぉ、おはよう。今日は何限だ?」
    教頭は僕の姿を確認するとすぐ真後ろの黒板に向かう為、その高
   級そうな椅子の座部をくるりと反転させた。
   「……二限、ろ組です」
    そうか、と言いながら教頭はさも面倒臭そうに黒板にチョークを
   走らせる。にげん、ろぐみ、と声に出しながら文字を板書するその
   仕草は、まるで子供のようだった。
   「もうすぐ朝礼だから、準備しておいてね」
    はい、と僕は小さく言いながら自分の机に教材の入った鞄を落と
   す。
   「朝から元気が無いですなぁ。寝不足ですか?先生」
    隣の机にはこの異常な寒さにも関わらず、タンクトップにジャー
   ジという、あからさまな格好をした体育教師。
   「いやあ、まぁ……」
   「まぁ先生もお若いですからな。昨夜は何ラウンドだったんです?」
   「そんなじゃないですよ……はは」
    僕はなるだけ笑顔を作り、世間話にもならないような下世話な言
   葉に付き合う。
    一週間の内に二回しか来ない非常勤講師なんて、毎度こんな扱い
   だ。
    彼は机に向かう女教師に珈琲を淹れ運び、気がつくマメな男を演
   出している。おおよそ馬鹿な男である。しかし、こんなことを馬鹿
   だと言う僕も、馬鹿なのだろう。
   「先生もどうです、朝のブラックは眠気覚ましにもなりますよ」
    では有難く、と僕はその珈琲カップを受け取る。
    それに口を付け、ずず、と音を立てて飲むと、先輩より先に飲ん
   じゃあだめでしょう先生、と体育教師に言われた。
    すいません、と続け、カップを下ろしたが、それは本心なのか、
   冗談なのか、僕には分からず仕舞いだった。
    そして僕はさらりと疑問を投げかける。
   「僕の名前……ご存知ですか? 先程から先生、としか呼ばれてい
   ないもので、少し気になったんですけれど」
    その言葉に体育教師はぎくり、といった表情を作る。どうやら憶
   えていない様子だった。
   「もちろん、知っているともさ。ス、スガワラ先生」
    それが彼なりの精一杯の言葉だった。
    非常勤講師の扱いなんてこんなものだよな、と鼻で笑う。
   「合ってますよ。失礼致しました」
    あんなに子供だった僕が。人の意見なんて突っぱねていたような
   僕が。自分の事しか考えていなかった僕が。今では愛想笑いや作り
   笑いが板についてきたのが、少しだけ哀しく思えた。

    教員室は、妙に騒ついていた。
    まさか、あのこが。何故、どうして。親御さんは何て言っている
   の?
    生徒関係で、何かあったのだろうか。
    尋ねたところできっと非常勤講師になんて教えてくれるはずも無
   いし、知る必要もない。
    契約期間が切れたら一年と経たずに僕はここからいなくなるんだ
   から。
    そうこうしている内に黒板の上のスピーカーから、女学生の声が
   放送される。

    朝礼です。校庭へ出ましょう。

    生徒の数はおよそ百五十人。
    他校区の中学に比べると、少ないくらいだった。
    静まり返り、乱すこと無く列を成すその書生たちに、僕はいささ
   かの疑問を抱いた。
    彼らは本心から、このように、校長様万歳を掲げているのか。は
   たまた心の中では嫌だと思いつつも強制、矯正させされているのだ
   ろうか。
    ――何も変わらないじゃあないか。これじゃあ軍隊と同じだ。
    本来自身で守るべきであるはずの自我を殺し、反発することなく、
   ただ、校長様の声を待つ。
    整列している書生達はみな無表情で、そこはかとなく不気味に感
   じた。
    そして壇上に、校長が上がる。
    生徒会だろうか。一人の女書生が礼、と大きく はっきり叫んだ。
    それに合わせ、百五十のこうべが垂れる。
    異常だ。
   「えー、皆さんに悲しいお知らせがあります」
    校長は神妙な面持ちで言う。彼の目の前に立ったマイクがハウリ
   ングを起こし、奇っ怪な音を立てる。
   「先日、不幸にも皆さんのお友達、三年い組の倉前陽子さんが亡く
   なりました」
    常套句。書生達も驚きを隠せない様子だったが、ざわつきはすぐ
   に途絶えた。
   「死因につきましては、お父上の虐待の末の死、とこちらでは聞い
   ております」
    その言葉を皮切りとし、百五十人の中の一部は狼狽する。嘔吐す
   る者、泣き出す者、放心する者が多発した。
    しかして、書生達にこの情報は必要だったのだろうか。
    彼らはまだ大人になる途中である。身体、精神共に未熟な、いわ
   ゆる思春期だ。
    “虐待”。成人男性が女児に行う虐待など、一つしかないだろう。
   それを察したのか否か、三年生の、特に天に召された女学生と同じ
   クラスの学生らの何人かは嘔吐を繰り返す。
    そしてちらりと校長の顔を見ると、感じられたのは下卑た笑み。
   勿論、表情には出していなかったが、関係者の中で最も冷静な自分
   しか分からなかったであろう彼の歪んだ癖。
    それが透けて見え、僕の胃液は逆流しようとする。
   「悲しいと思いますし、本校に於きましても非常に残念です。本日
   十四時にお通夜が開かれますので、クラスの人はお通夜へ出向かれ
   て下さい。あとの人は先生の指示に従って下さい」
    僕は確かに見た。
    心を、精神を殴りつける現場。
    あぁ、やはり大人とは子どもが図体だけ大きくなっただけなのだ、
   ただ行動に責任が伴うだけなのだと思わざるを得なかった。

    教員室へ戻ると、一限の担当者は各々準備を始めていた。
    その中をかいくぐり、どさりと指定の席に腰を下ろす。
   「いや、まさかレイプとは思いませんでしたな。私も一度は中学生
   と事に及んでみたいものですな」
    体育教師が何時もの調子で話しかけてくる。
   「不謹慎ですよ。そもそも、まだレイプって決まったわけじゃあない」
    体育教師も、やはりそう感じたらしい。寧ろ、それ以外に何があ
   るのか。
   「レイプではない、と仰るんですか? スガワラ先生」
   「その推察も、確かにあります。しかし、この場合はどうでしょう
   か。単純に殴る、蹴る、もっと他にもあったのだとは推論出来ます
   が、単純な衰弱死。例えば……そうですね。彼女が成長するに従っ
   て自分を見捨てた女に似てきたから、憎悪の炎が乗り移った。エデ
   ィプス・コンプレックスが妻にシフトした場合での推論です」
    体育教師は頭を抱えている。やはり体力自慢には少し難しかったか。
   「しかし、彼女の場合は、父母共に在宅中でしたよね?なら、もっ
   と深い理由が有ったのかも知れませんが、如何せん情報が不足し過
   ぎています。推論を述べられる程もありません」
   「ん、まぁ、そういう考えもある、な。おっと、先生。珈琲冷めて
   しまいましたね。淹れて来ますよ」
    そうして、逃避を図る、か。
   「あ、あとすいません、僕、菅生です」
    やはりアンタ達は子どものままなんだ。
    僕も例外ではない。
    今、ようやっと確信したよ、佐久間。子どもは、ずっと子どもだ。

    女性教師の机にもにこやかに珈琲を置いてゆく体育教師の大きな
   背中を見ながら、僕は心で唱えた。




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