月周回軌道の教室
 


   「産まれたての赤ちゃんって、子供に分類されるよね」
    窓から差す太陽の光を背に、佐久間は左手で頬杖をつきながらぼ
   そりと口を開いた。
    そしてまるで同意を得ているかような眼差しを菅生に向ける。真
   っ白なシャツと、ふわりとした癖っ毛が逆行により透けて見え、そ
   れは彼を何処か知ら儚げに見せた。
   「そりゃあ、そう、だろう。赤ん坊は、子供だ」
    黒板に板書された数式を菅生は全身を使いながらぐい、と消して
   ゆく。そうしている内に自分の身体が汗ばんでいる事に気がついた。
   「じゃあさ、中学生は?」
    佐久間は続ける。ぬたん、とした湿気が教室中を満たしており、
   それなのに太陽は休める事を知らないように気温を上昇させる。
    それが菅生には確かに感じられ、苛立ちを募らせていた。
   「中学生も、少なくとも、世間的に、見れば、子供、だろう」
    教室の端から端まで、教壇がおよそ十メートル程。その距離を何
   往復もしている菅生の額からは知らぬ間に汗が流れ落ちる。流れ落
   ちてからようやっとそれに気がついた彼は、白いシャツの袖で額を
   拭った。
   「高校生は?」
    佐久間は今度は国道を流れてゆく車を目で追いながら言う。
   「何が、言いたい?」
    菅生はそろそろ息も絶え絶えになり、彼のシャツは絞れる程に汗
   を吸収し、彼の背中にへばりつく。不快感からの苛立ちがより一層
   積み上げられてゆく。
   「いや、僕たちはさ。多分今子供でしょ?  ハタから見れば。どのタ
   イミングで大人になるのかなって」
    何故かそう言う彼は菅生とは違い、涼しげだった。その細い癖っ
   毛が七月の風に揺らされる様子は、まるで幽霊の様だった。
   「ふぅん」
    すっかり汗だくになった菅生は佐久間のその言葉に適当に相槌を
   うち、わざと佐久間の目の前にチョークの粉が舞うように、黒板消
   し同士を窓の外ではたいた。
   「いつかパッ、と大人に分類される時が来るの……うわっ! ちょっ!
   祐介!」
    花粉症よろしく、佐久間はくしゃみを何度もし、恐らく有害であ
   ろう粉を体外に排出する。
   「なにするのさ。ひっどぉ。っていうか祐介汗だく!」
   「うるさい。恨むなら無駄にでかい黒板と、チョークを開発した人
   間を恨め」
    言うなり菅生はどすん、と佐久間の側の壁にもたれながら、床に
   へたり込んだ。
    動かしていた身体は休めているものの、彼の発汗は未だ続いてい
   る。菅生はシャツの襟のボタンを二つ外し、ぱたぱたと胸元目掛け
   て扇いだ。
   「……で、何が子供だって?」
    佐久間は汗だくになった菅生が余程可笑しかったのか、ひひ、と
   笑いを飲み込んでいた。
   「いや、あのね、いつまで子供でいられるのかなぁって」
   「それは、何だ。学術的にか?」
    佐久間はちら、と黒板を見たのち、“日直を消し忘れてる”と小
   さく口にした。菅生はそれを無視し、続ける。
   「そんなもの主観じゃあなく客観的な問題だろう。いいか?お前の
   オヤジさんから見ると、お前がたとえ還暦を迎えたとしても、子供
   は子供だ。だが、周囲からはただの禿げた加齢臭のきついクソ親父
   として見られる」
    山の上からは入道雲が伸びている。まるでその上をふわふわと歩
   けるようなそれだ。中庭からは人生を少し早まった蝉が鳴き出して
   いた。
   「それひどい。僕は還暦を過ぎてもダンディでニヒルな素敵親父だ
   よ」
   「学術的に述べると、精神が成熟した時点で大人と見なされるんな
   ら、俺たちはもうすぐ大人なんじゃないか?」
    佐久間の言葉を無視し、菅生は言う。ふぅむ、と佐久間は小さく
   頷く。そして聞こえるのは喧しい蝉の声と、他の教室から聞こえる
   談笑だけになった。

   「――アキレスと亀のパラドクスを大人と子供、に喩えたらどうな
   るかな。一生子供のままで、間一髪大人に追いつけずにいるんだよ?」
    佐久間は入道雲の輪郭を空いた右手でなぞりながら言う。
   「それこそ人それぞれだろうよ。世の中には子供のまま身体だけ大
   きくなった大人もいる。エジソンや、太宰だってそうだ」
   「尾崎も?」
   「それは知らん」
    菅生ははあ、とため息をつく。
    もうすぐ定期実力試験だと云うのにもかかわらず、何故俺たちは
   こんな不毛なやり取りをしているのか。と、嫌になったからだった。
   「フロイトのさ、自己防衛本能からくる幼児退行ってあるじゃん?」
    佐久間は言う。
    最近の彼はぼうっと呆けている事が多く、以前と比べ覇気が無く
   なった気がする。
    理解してやりたい気持ちも菅生には確かに存在したが、佐久間の
   主観はあくまでも彼の持ち物であり、それを客観視したところで理
   解できる筈もなく、途方に暮れていた。
   「お月様がそれだと思うんだよ」
    菅生は教室の端に設置されたごみ箱を見た。教室のごみを焼却炉
   まで引きずってゆくのも日直の仕事であったが、如何せん面倒臭い。
    明日の日直に引き継いでやろうと彼は思った。
   「お月様は産まれて、消えて、また産まれて、の繰り返しでしょ?
   まるでキリストだよね」
   「あのな佐久間。あれは消えてるんじゃない。太陽の光を月が反射
   させていて、その反射角から地球が外れているだけだ」
    まるで赤子を諭すように菅生は言う。
   「あ、そうか。裏表が激しい人なんだね。お月様は」
    涼しげに見えていたのは気のせいで、実際は暑さによって脳に異
   常をきたしているだけだったのか、と菅生はまたため息をついた。
   「もういい。帰るぞ」
    そう言って菅生は立ち上がり、身体にまとわりついたシャツを剥
   がす。
   「ババ屋ちょっとよってから帰ろうよ。ラムネ飲みたい」
   「あーもう好きにしろ」

    高校三年生にもなって駄菓子屋に行くのも、変な話だ。と菅生は
   鼻で笑う。

    お月様は、僕たちの見えないところで何してんだろね。

    鞄を持ち上げながら、ため息まじりな佐久間の声が聞こえた気が
   したが、菅生は聞こえなかったフリをした。

    ――いつ大人になるのか、か。

    菅生は優雅に空を滑空するツバメに、せめて月の裏側まで飛んで
   行ってくれよ、と、出来もしない事を願った。




       前の話へ  TOPへ  次の話へ

 

 

inserted by FC2 system