坂道のある街
 


      何年という長い間机の足に圧迫されていた畳はその形にへこんで
   おり、その存在があった証拠を残していた。

    生まれた時から付き合ってきたこの街の夏とも、お別れをしなけ
   ればならない。

    そこには長い長い坂道があった。
    その坂道を降りて右手には個人経営の商店(当時の僕たちはババ
   屋と呼んでいた)、もう少し下りてゆくと住宅地があり、細く長い
   道が続いていた。

    父に買ってもらったばかりのマウンテンバイクを自慢しながら、
   僕たちは坂道のてっぺんまで登った。

    蝉の鳴き声、麦わら帽子、シャボン玉、笑い声。
    あの頃の僕たちは怖いものなんて何もなかった。強いて云えば、
   父の怒り顏くらいか。

    坂道のてっぺんに秘密基地を作り、ラヂオ体操を終えた僕たちは
   出された宿題の山のことを何も考えずにババ屋に立ち寄って駄菓子
   を買ったのち、そこに集まることを日課としていた。

    お前のチャリンコぼろぼろじゃん。
    コウタはシンヤに向かってよく言っていた。

    僕たちの間ではとても子供らしい遊びが流行っていた。
    長い坂道を自転車でブレーキをかけずに下ってゆき、一番に早か
   った者に当時流行っていたカードゲームのカードを渡す、という安
   直なものであったが、馬鹿な子供だった僕たちの世界ではそれが全
   てだった。

    いつか、一番になってやる。
    僕はずっとそう思っていた。

    いつも一番に早かったコウタは、沢山のカードを持っていた。
    それが羨ましくもあったし、悔しかった。
    しかし仲違いをすることも無く、僕たちは仲良く楽しく遊んでい
   た。

    夏の匂いが、僕たちを包んでいた。

    コウタは本当に怖いものなど無いように思えた。
    肝試しをした時だって、彼が率先して動いた。
    カブトムシを獲る時だって、大きな木ににも関わらずひょいひょ
   いと登る。
    彼は僕らの世界の中ではヒーローだった。

    しかし、夕立ちが過ぎたある日、子供であった僕たちにとって、
   とても大きな事件が起きた。
    コウタがいつもの坂道ゲームの途中、その細いゴムタイヤを滑ら
   せ、大きく転倒したのである。
    大きなひざの擦り傷と、初めて見るコウタの泣き顔。
    僕たちのヒーローであったはずの彼のそれはとても衝撃的だった。


    何故急にこんなことを思い出したのかというと、引っ越しの準備
   の途中、押入れの奥底からブリキの箱が出てきたからであった。
    少し錆びたフタを開けるとその頃の宝物が無造作に詰め込まれて
   おり、その中に初めてコウタから受け取ったカードが入っていたのだ。

    僕たちは確かにそこにいた。

    僕は今日、この坂道のある街から離れてしまう。

    あの日の光景がフラッシュバックしていた。


    後で知ったことだったのだが、コウタの自転車のブレーキは壊れ
   ていたらしく、初めから止まることなどできなかったそうだ。
    それがずっと一番だった理由だと考えてしまうと、何とも哀しく、
   寂しく、あの頃のヒーローの姿は少し錆びたブリキと同じように思えた。


    僕たちはいつの間にか、秘密基地には寄り付かなくなり、ばらば
   らになってしまった。

    思い切った性格のコウタは勢いで子を作り、勝手にこの世から消
   え。
    しっかり者のシンヤは遠い都市部の大学に進み。
    優しかったアヤコは看護士になり。
    馬鹿だったヒロユキにいちゃんは自分を殺した。

    僕はというと、少し遠い街に転勤することになった。

    ――そろそろ、出発の時間か。

    僕は坂道を右手に見ながら軽トラックを走らせる。

    いつの間にかババ屋は店をたたんでいた。

    坂道のてっぺんにはあの頃の僕たちと同じように、子供達が笑っ
   ているのが見えた。

    僕は軽トラックの冷房を切り、運転席と助手席の窓を開け、夏の
   風を感じた。


    せめて、あの頃と同じ匂いを。
    せめて、あの頃と同じ空気を。


    もう戻れないと分かっていながら求めてしまうのは、悪いことな
   のだろうか。


    蝉の鳴き声とエンジン音が鼓膜に響いていた。

 



       前の話へ  TOPへ  次の話へ

 

 

inserted by FC2 system