手紙
 


    始めはただの間違いだった。

    授業も終わり、夕陽と夜が近づいてくる鎌倉市を眺めながらバル
   コニーで由香里と少しの話をしていたら、もう日も暮れかけていた。
    今日も明日も同じ事を繰り返す、という毎日にうんざりしながら
   帰り支度を終え、昇降口へ向かう。

    するとどうだ。私の下駄箱に一通の手紙が入っていたのだ。
    もしや、ラブレター?  私もなかなかいけてるんじゃないの、と小
   さな期待を抱きながら帰り道を急ぐ。
    内容を楽しみに、鞄にすとんと落としたそれは、毎日を変えてく
   れるように思っていた。
    恐らくその足は軽く、由香里が見れば“何かいい事でもあったの?”
   というような状態だっただろう。

    しかし、その期待は封を開けた途端に裏切られた。

    手紙の内容を要約するとこうだ。
   『昨日は楽しかったね。次の休みは遊園地にでも行こうよ。返事待
   ってます。』

    そしてその手紙の冒頭には、クラスメイトの女子の名前が書いて
   あった。


    間違いじゃん。


    わくわくしていたはずの私は途端に走り去ってゆき、同時に期待
   していた自分が馬鹿に思えて仕方がなく、思わず肩を落とした。

    これ、どうしようかな、とベッドに寝転んだ。

    幸い送り主の名前もフルネームで書いてあり、特徴的なそれなの
   で、少し調べれば誰だかはすぐに分かるだろうが、私は悩んでいた。
    間違ってたよ、と送り主に届けるべきか。又は手紙に宛てられた
   本人に届けるべきか。

    何にしても私が内容を見てしまった事には変わりは無い。
    しかしながら、周囲でこの人達の色恋沙汰は耳にした事が無かっ
   た為、この事は二人の中での秘密なのであろう。


    当時の私は正直なところ良い人間では無かった。
    というのも、どこか意地が悪く、人に嫌われるのも得意だったか
   らだ。

    そのせいか、私の悪戯心はふよふよと膨らんでゆく。

    ――私がこの子になりきって手紙を返してみよう。

    クラスメイトの筆跡を真似る、なんてことはしない。あくまでも
   “私”が書く。どうせ知らない学生だし、何を思われようと別にど
   うでもよかった。

    私は紫色のペンを取り、手頃な手紙と便箋にクラスメイトになり
   きって返事を書いた。
    あえて名前は書かずに、便箋に適当な文字を詰めた。

    翌日、別のクラスの友人に彼の名前を尋ね、出席番号を聞き出し
   た。
    そして終業後、25の下駄箱に手紙を入れておいた。そこには汚れ
   たズック靴が入っており、まだ彼が下校していないことを暗に告げ
   ていた。

    はたから見たら馬鹿だったろうが、当時の私は平凡で退屈な毎日
   を変えたい衝動で一杯になっていた為、チャンスだ、と思っていた。


    翌日の下校時、私は思わず目を自分の目を疑った。
    私の下駄箱に一通の手紙が入っていたのだ。

    何故隣の下駄箱ではないのかは考えておらず、ただ単純に騙した
   つもりでいた。

    結局そのやりとりは卒業まで続いたが、そのうち途切れてしまっ
   た。
    初めは少し楽しかったし、毎日が変わったように感じていたが、
   数週間後にはすぐに飽き、文通もただの怠惰に変わり、結局私の二
   年半は変わらなかった。


   ○


    それは卒業後初めての同窓会だった。
    当時学び舎を共にした学友達は有名な学者になっていたり、大学
   教授になっていたり、銀行員になっていたり、夢に向かってフリー
   ターをしていたり、知らぬ間にこの世を去っていたりと様々だった。

    クラスを賑わせていた馬鹿は有名な学者になっていたにもかかわ
   らず変わらないままだったが、在学中一番に仲の良かった由香里の
   姿は、そこには無かった。

    そこで輪を作りすっかり昔話に花を咲かせていた頃、とんとん、
   と私は肩を叩かれた。
    それに反応し振り向くと、知らない顔があった。

   「橋岡さん、ですよね」
    笑顔の知らない男性は私の名前を口にする。
    そして、ちょっとこっちへ、と部屋の端へ誘導された。

   「鼓(つづみ)です。憶えてますか?」

    そこで私ははっ、と思い出した。
    手紙、25番の下駄箱、紫のペン。
    忘れるはずも無い、印象的な名前。

    手紙、と私が言うか早いか、彼はすっ、と子綺麗な便箋を渡して
   きた。

   「私と知っていたの?」
   「当たり前だよ。筆跡も口調も違うかったからね。そもそも知らな
   かったら君の下駄箱に失礼したりなんかしなかったよ。まぁ、あの
   時の彼女とはあれのせいでお別れしちゃったけどね」

    今になって初めて、少しの罪悪感。

   「何故直接会いに来なかったの?」
   「うぅん、何て言うか、手紙は僕にとって特別な感じがしてさ。直
   接会うのも無粋かなってさ」

    彼は首の後ろをぽりぽりと掻きながら、はにかみながら言う。

   「怒っていいよ。ずっと騙してたんだもんね」
    私は正直、金属バットで殴られるくらいの覚悟をした。
   「とんでもない。むしろ感謝してるくらいだ」

    その言葉が意外で、不可解で、私は思わずきょとん、とした。
    感謝、だって? 騙してたのに?
   「わけがわかんないって顔してるね」
    そう言って彼は笑った。

   「始めは、ほんとに間違いで君の下駄箱に手紙を入れちゃったんだ。
   でも、何故か返事が返ってきた。伝えてなかったけど、最初の返事
   で気付いてたよ。あの子は紫なんていう趣味の悪い色のペンなんて
   使った事無かったから」

    私は上手く騙してたつもりだったから、気付かれていたと考える
   とこっ恥ずかしくなったのと、自分の好きな色を乏しめられたこと
   で小さく俯いた。

   「そんな、気にすることないってば。感謝してるくらいだって言っ
   たじゃん」

    彼は笑いながら私を励ますが、そう言われてもやはり罪悪感は拭
   えない。

    私はすっ裸で踊っている馬鹿な学者を横目に見ながら、彼のネク
   タイが少し曲がっているのを気にしていた。
    彼はそんな馬鹿な学者を一切見ずに、正座を崩すことなく私を見
   つめる。

   「考えてもみてよ。君との文通が楽しかったから僕は君の下駄箱に
   手紙を入れてたんだ。あと、とても魅力的に見えた」

    私ははぁ、と小さな声を出す。

   「とりあえず」

    彼は赤ら顔でそう言うと銀色の可愛げの欠片もないポケットベル
   を取り出した。



    彼との文通が、また始まる。

    セピアに色褪せたはずの思い出が、漂白され、また着色される。

    それはまるであの日バルコニーから見えた夕陽のように私の心を
   揺らしたようだった。




       前の話へ  TOPへ  次の話へ

 

 

inserted by FC2 system