衛星軌道上の夕べ
 


  「ねえ、天体観測にでも行かないかい?」
   佐久間は菅生の肩を叩きながら言った。佐久間は出不精な為、人
  を外出に誘うなんていう事は珍しい。
  「あー、寒いぞ?それに、こんな街中で星なんて見えるのか?」
   菅生の言葉は白い息とともに吐き出された。体を縮こませながら
  ダッフルコートに両手を突っ込んだ彼は相当な寒がりだという事が伺えた。
   実力試験が終わった後の事だった。昼間でも(と言っても放課後で夕方と
  もとれる時間帯でもあるが)こんなに寒いのに、夜になるとよほど冷え込む
  であろうことが菅生には容易に考えられた。
   それに加えて鎌倉市の夜は明るい。いくつものネオンと電灯。星など見上
  げる必要もない程の明るさである。
  「それを見えるように準備するの。僕ほら、双眼鏡持ってるし。学校のバル
  コニーから見えるでしょ」
   佐久間は両手の人差し指と親指で輪を作り、それを眼前に持って行った。
  自転車ですれ違って行く大船高校生がそれを見て、怪訝な顔をしながら通り
  過ぎて行く。
  「双眼鏡でそんなことできんのかよ。しかも学校のバルコニーって……お
  前、忍び込むつもりか?」
   菅生が眉間にしわを寄せながら問うと、佐久間はカブトムシを見つ
  けた小学生のような笑顔を作り、右手の親指を立てた。

   県立大船高校。彼らが通う学舎である。佐久間が言うバルコニーという
  のは西館と体育館に設置されており、学生の語らいの場となっている。
  そこからは鎌倉市の全景が見渡せるようになっており、放課後には美しい夕焼
  けが拝める。ロマンチックな学生はそこで愛の告白をしたり、恋人に甘い
  言葉をささやいたりするのである。
   佐久間は夜中にそこに忍び込み、星を眺めようと言うのだ。なん
  とも無茶な話である。
  「祐介、君は何もわかってない。忍び込むことにロマンがあるんだ
  よ。なんていうか、背徳感、みたいな。ほら、尾崎だって窓ガラス
  壊して回ってるじゃん」
  「現実とフィクションを同じにするな。ありゃ嘘だ」
   菅生は呆れ顔で言う。佐久間は少しおかしな発想の持ち主で、何
  よりも尾崎豊を尊敬してやまない馬鹿だった。
   首に巻いた白と黒のストライプで編みあげられたマフラーに鼻ま
  でうずめ、佐久間はうぅん、と唸った。
   こんな時期に天体観測なんて、それも学校に忍び込むなんて、突飛
  な発想。菅生は佐久間のおかしな言動にはある程度慣れてはいたも
  のの、これには少し呆れる他無かった。過去にも彼は“秘密基地を作
  ろう”だの“教室のストーブで鍋をしよう”だの言言い出し、菅生は
  しぶしぶそれに付き合った挙句幾度となく教員に叱られてきた。言うな
  ればとばっちりである。
   しかし、今回は下手をすると警察沙汰にもなりかねない。校内で
  の前科がある彼らにとっても、これは流石にまずい。

   彼がこんな提案をする理由を菅生はある程度何故か判っていた。
  ちょうど一年前くらいであろうか、超新星爆発(スーパーノヴァと
  も云う)が観測された。ニュースでそれを知った佐久間は以来天体
  の虜になった。
  それにしても双眼鏡で天体を観測しようなどという試みは彼が初
  めてではないだろうか。菅生はある意味彼を尊敬することにした。

  「とりあえずさ、祐介のウチいこうよ。ファミコン買ったんしょ?」
   佐久間は手を広げ、菅生の前を走って行った。周囲から見れば完
  全に変人である。
  「ソフトはファイナルファンタジーだけだけどな」

   昭和63年2月、世間は東京ドーム建設の話題で賑わい、空にはちら
  ちらと雪が降っているのが見えた。



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